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2010年1月14日アーカイブ

南国市・後免町商店街の「やなせたかしロード」を見物に行ってきました。

アンパンマン石像で南国市を元気に!と言う思いで、地元出身の漫画家・やなせたかしさんがデザインした石像が設置された事を新聞で見ておりました。

写真を撮っていると、商店街の若いご夫婦が「よう来てくれました・・・」と声をかけてくれて、"ごめんの ごめん しょうが飴"を「食べませんか!」と差し出してくれました。

なんともほのぼのとした気持ちになりました。

 

南国市・後免町商店街のアンパンマン石像・・・ドキンちゃん 

商店街の西の入り口にありました。

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出典:「やなせたかしロード」

ドキンちゃん → 撮影場所

アンパンマン石像で南国市を元気に

石像で後免に活気を―。南国市名誉市民の漫画家、やなせたかしさん(90)がデザインした「ごめん生姜(しょうが)地蔵」やアンパンマンなどの石像計8体が、同市中心部の後免町商店街などに設置され3日、お披露目された。除幕式に駆け付けたやなせさんは「人が集まる街になるよう役立ててほしい」と笑顔で石像を見詰めていた。
石像はいずれも御影石製。今年が市制施行50周年に当たることから市街地活性化などを目的に同市や市商工会、住民らがやなせさんらの協力で準備を進めてきた。
後免町1~3丁目の商店街約400メートルには、アンパンマンなど7体(高さ約1・2~1・4メートル)を据え付けた。
後免町公民館前に立つ「ばいきんまん」のお披露目式に参加したやなせさんは、地元の商店主らと一緒に記念撮影。商店街が「やなせたかしロード」と命名されたことに「もっと広い通りかと思った! 繁栄してほしい」と周囲を笑わせた。
生姜地蔵(高さ約0・6メートル)は、同市大埇甲のごめん・なはり線「後免町駅」前に置かれ、大勢の市民らに見守られながら除幕式が行われた。
その後、やなせさんの母校、後免野田小学校=同市下野田=で記念式典。橋詰寿人市長や商工会関係者、地域住民らが〝先輩〟の里帰りを笑顔で迎えた。
メーンイベントで、やなせさん作詞作曲の「生姜音頭」を女性デュオ、スーパーバンドが熱唱。歌に合わせ、かわいい振り付けで踊る子どもたちに大きな拍手が送られた。 

                              2009年10月04日08時45分 高知新聞

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HN:ちるどれん

後免町商店街のアンパンマン石像(やなせたかしロード)に関する記事  

南国市内の見所・ウオッチング

HN:ちるどれん さんの記事 

正月3日に野根山街道を散策することが出来ました。

米ケ岡自然体験学校の上の白石若宮神社、登山口には10台くらいの駐車場があり、ここから徒歩で野根山街道を登りました。

野根山街道・・・米ケ岡自然体験学校の上の白石若宮神社、登山口

野根山街道・・・二里塚と六部様(ろくぶさま)

野根山街道・・・わらい栂

  

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奈半利自然保護研究会:旧藩林(きゅうはんりん)

江戸末期の造林の杉林であり、藩政時代は藩主の命令で街道の崩れを防ぎ、また日陰をつくるために街道の両側15間(45m)の伐採を禁ずる御留山にしていたといわれている。盗伐には、はりつけや耳そぎの刑がくだったという。樹齢150年以上の見事な杉林が残っている。この街道の左手には、北川村野川から登ってきた道と合流する。 

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安芸森林管理署:野川山旧藩林

四国のみち「野根山街道」のみどころの一つとして紹介されている旧藩林は、江戸末期に造林された樹齢約170年生のスギ林です。

 この旧藩林が植林された5年後の天保9年(1838年)に、北川村で中岡慎太郎が生まれ、元治元年(1864年)には、清岡道之助をはじめとする二十三士が、旧藩林の前を通り抜けて、「岩佐の関所」に武装屯集したとされています。
 
 藩政時代に土佐藩は、御留山制度を設け一般の伐採を禁止し、藩が直接管理していました。御留山には、幕府への献上木を伐採する「御用木山」、藩財政確保用の「御国用山」という区分がありました。野川山は「御用木山」であったようで、1683年の「御用木山改帳」に度々御用木を仰せつかったという記述があります。当時の伐採跡は「ぼうが」に任せたままでしたが、野川山は良材を産出する「お宝山」又は「土佐の十宝山」と称されていたことから、藩の直営事業として植林が行われました。古文書によると文政9年(1826年)頃から野川山に植林が行われていたという記録が残っていますが、野川山旧藩林がその頃に植えられたという実証が得られていないことから、天保4年(1833年)に植林したと推定されています。

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御留山(おとめやま) 

御留山というのは江戸時代(藩制時代)、にお役人の、許可がないと入れない山を意味していた。有益な資源が有るので、お役人の管理下に置いて管理させていた山なので、伐木禁止、採掘禁止させる意味で、立入を禁止の地域なのです。

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HN:サカチャン 

野根山街道・・・旧藩林 に関する記事                                         

野根山街道 に関する記事

HN:サカチャン さんの記事

田 役

 吉野川の南岸の岡に開けた本山の町は、春は桜や石南花、川辺のつつじは南北連山の燃え立つ緑に映えてほんとに美しく、それに加えて山水か育む清々とした空気も美味い、のどかな町である。

 その本山の下町から南山の傾斜に若宮公園があり、この桜の園を挟んで上と下を、兼山掘りのゆ溝が二筋に東から西へ豊かな水をたたえて流れ、吉野川の川沿いに開けた田んぼや町をうるほし、昔から幾度かの町の大火も防いだ防火用水としての大役も兼ねている大切なゆ溝である。

 この二筋のゆ溝は帰全山(鴈山)公園の鶴嘴、川原を大きく迂回した吉野川王瀬の肩に、南から突き当たるように出た小川(樫の川)。水源は国見山と三郷の峰合いから泉み出て、大石と吉延部落のさこあいを流れて吉野川本流に達している。

 樫の川の中腹、両部落の下、大きな岩瘤巻の小川を、岩や石垣でせき止め水を入れた兼山掘りのゆ溝は、町の南上を、上ゆ下ゆと流れて十キロ余りもある。

 四国の連山と吉野川、町並みを望観できるゆ溝の小道は、町の人たちに静かな散歩道でもある。

 さて、年中水を湛えてゆるやかに流すゆ溝。このゆ溝の管理や修復は、主にお百姓さんの仕事で、日々の見回りは当番制で、当番に当たった人は朝早くから歩いてゆ関からゆじりまで往復し、ゆの戸(田へ引く水落とし口戸や、山あいからの小谷水は全部ゆ溝が受け止めているので、小谷が下へ涸れてはいかんので落とし水を調節する戸板)ごとに水加減を見ては調節して回る。

 修復工事で一番大変なことは田役という行事である。冬の寒風に震えていた草木も、暖かい春の日ざしと共にふきのとうやつくしの芽がふき、菜の花に蝶が舞い桜花へと自然は順次ほころび、人々も身も心も浮き立つ好季節。

 日々は夢の間に過ぎ桜花も風に散り、川辺は躑躅に色染まる五月。梅雨やしつけ(田を耕し稲植えるまで)を控えて、さあ田役(年中の通水に洗い流されたゆ溝の土手修復)じゃ。
 
この作業中は、水を止める(水の干上がったゆ溝の小溜まりで、ゴリやどじょうの小魚を手掴みで取るのは、子供達の楽しみであった)。
 

 さて、作業の段取りは、ゆ掛かり田んぼの反別に応じて、歩役と日数が前もって決められていた。

 さあ、お百姓さんは男も女も総出で、男はかるさん股引き向こう鉢巻き、きよい(張り切る)の姿で、棕櫚のもっこに赤土入れて天びん担いで足取り軽くほいほいほい。
 
かますのもっこに赤土山盛り、前後を二人で担いでほいこらほいと運んでは、ゆ溝の傾斜(六、七十センチ)の土手に順次移して、また土取り運ぶ。狭いゆ道は天びんともっこ担ぎが行き交う長い列。

 土入れた傾斜の土を年役がひら鍬でぺたぺたと塗りならす。
 
その後に続いて女ごし(婦人)は、白い手拭、姉さんかむり、紺の仕事着に赤たすき、裾を尻からげにまくって臑から下は赤いお腰で艶やかな、十人余りの人数で、みな手に手に一ひろほどの竹竿(破竹)の先に木の丸太(直径五センチ、長さ二十五センチ、金槌ゲンノウの形)の土たたきで、塗りならしたあぜ土を、艶な女ごし連が横に並んで竹竿槌を、天まで振り上げては叩きつける。
 

 その音はぱんぱんぱんぱんと拍子が合うたり乱れたり。そのうちに唄声がはいり、叩きつける槌音は太鼓と鼓に代わって調子を合わし、ぱんぱんぱんと叩きつけながら、隊列はゆっくりゆっくりと横しもへ移動して行く。

 和やかな流れ作業の姿は、まことにユーモラスで、見る人の心を飽きることなく楽しませる。

 この山河にマッチした見事な田役の光景は、町のゆ溝を上から下へと一週間余り続けて見られた。

  今はゆ溝のあぜ土手や、水漏れ箇所はコンクリートで全部が固められて、楽しく見えた田役作業の光景も、時は流れて昔の夢となった。

 ◎追話  野中兼山が百姓人夫を大勢駆使して、初めてゆ溝を造ったとき、川水を堰こんで流したが、水はゆ溝にだんだんとしみこんで下へ流れ着かない。

 なんでかなあと兼山は頭を悩ましていた。それを見たある老人が、学問があってもまだ若い、知らんことがある。ひとつ教えてやろうと、「ゆ元で赤土を踏み、濁してどんどん流してみよ」と。

 兼山は言うとうりに作業を進めたら、赤泥の水はゆ溝のしみ穴を逐次ふさいで水は順調に流れた、と。嘘か誠か?

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