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2010年9月11日アーカイブ

観光ボランティアガイドを熱心に取り組んでいる、歴史家の根木さんに、武市半平太の旧宅と墓、瑞山神社 を案内していただきました。

地図はこちらです。


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道路脇に駐車場がありました。 

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武市半平太の旧宅が民家として残っており、ちょうど民家の方が居られたので、ご挨拶をして見せていただきました。

家の周りには梨園があり、ちょうど出荷時期でお忙しそうでした。 

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手入れが行き届いておりました。「龍馬伝」ブームもあって、訪れる方は毎日相当おられるようです。

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高知市:武市半平太旧宅及び墓

土佐勤王党の盟主、武市半平太旧宅と墓は、昭和11年(1936)9月に国の史跡に指定された。旧宅は、半平太が城下に出たとき以来、武市家の所有を離れているが、母屋・土蔵などは郷士屋敷の面影を残している。

旧宅から右手に伸びている道路を歩くと石段があり、その先には瑞山神社や瑞山資料館、瑞山の墓などがある。

※武市半平太旧宅は現在個人宅につき、立ち入りできません。

 

高知市:文化財情報 史跡 武市半平太旧宅及び墓

解説

下田川にかかる瑞山[ずいざん]橋をわたって南にのびた道を進むと昔のたたずまいを残した家並みと田園が開けてくる。途中の小道を東に進むと武市半平太の旧宅につきあたる。もとは、藁葺で間数6室、客室は8畳で柱に半平太が字を刻んだ痕がある。東南の客室の前面に池や庭をつくってあり、土蔵(現存しない)、物置もあって、典型的な郷士屋敷である。半平太は1829(文政12)年9月27日生まれた。家は郷士で約52石を領したが祖父・父は白札格となり上士待遇であった。1849(嘉永2)年家督を相続。高知城下新町田渕の郷士島村源次郎の娘、富と結婚し、妻の叔父島村寿之助とともに田渕に剣術・槍術の道場を開いた。1861(文久元)年江戸に赴き、長州の久坂玄瑞・桂小五郎、薩摩の樺山三円らと交わり薩長土の提携に尽力した。同年8月大石圓[まどか]らとはかって土佐勤王党の盟約書をつくり、党主となった。土佐藩の一藩勤王を説いたが、吉田東洋に書生論として退けられ、1862(文久2)年4月8日東洋を暗殺して土佐藩を勤王化することに成功した。同年10月半平太は柳川左門と称し、副勅使姉小路公知の雑掌として護衛にあたり東下の大任を果たした。1863(文久3)年3月には京都留守居加役となったが、4月には帰国し、その後山内容堂に藩政改革をせまったが、容堂の公武合体論をかえることはできなかった。同年8月18日の公武合体派による政変の結果、土佐勤王党も弾圧をうけ、9月21日半平太は投獄された。1865(慶応元)年閏5月11日切腹を命ぜられ37歳の命を絶つ。「花は清香に依って愛せられ、人は仁義を以て栄ゆ。幽囚何ぞ恥づべき、只赤心の明かなるあり」は半平太の獄中の作である。
 半平太の墓は旧宅の前の小道を南に進むと、瑞山神社があるが、その上の丘陵にある。

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お蚕さん                                                  情報プラットフォーム、No.212、5(2005)

 

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                               なはり町並み散策・・・藤村製絲株式会社 に関する記事


 先日の新聞に「藤村製糸が操業休止 国内最大 奈半利町」の見出しで、国内最大の生産量を誇る、県内唯一の製糸会社が生糸の生産から撤退し、88年間に及ぶ歴史を閉じるとの報道があった。

養蚕農家の高齢化などで全国的に国産繭の供給が不足となり、中国産に太刀打ちできなくなったことが理由である。

養蚕業や製糸業は、長野や群馬だけではなく高知にもあったのである。1950年代までは片倉工業や郡是製糸(現グンゼ)の高知工場があり、生糸の生産を行っていたのである。

 ボストンでの国際会議の合間にフリーダム・トレールを散策した。歩道上に引いてある赤い線を伝わって行けば主要な歴史的スポットを見て回れるようになっている。

アメリカの独立運動に関わって市民たちが議論を戦わせた会議場(教会)もその一つである。歴史的な事物を陳列した資料館になっている。ガラスケースの中に古びた厚手の書物が、ページを開いて陳列してあった。

そのページには「第○章 米日間の貿易摩擦(TRADE FRICTION)」とある。今の貿易摩擦のことかと目を疑った。20年ほど前の1980年代、日米間の貿易摩擦が激しくなった頃のことである。

鉄鋼に始まりテレビや乗用車、そして半導体メモリーを輸出し、アメリカの対日貿易赤字が膨れあがっていた時代である。プラザ合意の直前である。


 目をこらして読めば、「豪雨のような日本の貿易攻勢を防がなければ大変だ。日本製の生糸と茶の関税を高くする必要がある」との主張である。

今から70年ほども前の1920年代から1930年代の話だったのである。昔、日本に痛い目にあったことを思い出させるために、そのアピールのためにそこのページを開いてあるのだと思えた。


 私の子ども時代は戦前・戦後である。父親の転勤で北海道から九州までの日本の各地を転々とした。

当時は、桑畑や桑の木は何処にでもあった。北海道でも養蚕が行われていた証拠が残っている。札幌市中央区桑園という地名である。

明治8年に荘内藩の入植者たちが養蚕を始めたそうである。稲作と同じように、養蚕は日本中に広がっていた。そして、それぞれの地域の稲作の方法や養蚕の仕方を比較することが出来た。

戦前は泊まり込みの勤労奉仕で、農作業や田畑改良作業、養蚕業の手伝いをした。多数のお蚕さんが桑の葉を食べるざわざわとした音で寝付けなかったことも思い出す。

天から授かった虫だから蚕には、「お」と「さん」を付けるのだと教えられた。ボストンの資料館で見た記事は体感として納得できるものであった。明治以降の日本の発展を支え、戦後の一時期にも日本を支えた産業の一つであった。


  藤村製糸の生糸からの撤退は、中国からシルクロードを伝わって西に運ばれた蚕や繭や生糸や絹が地球を一周して再び中国に戻っていったことの象徴に思える。

 

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鈴木朝夫   s-tomoo@diary.ocn.ne.jp

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