羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・ジョン万次郎(その2)

中浜万次郎は、鎖国から開国に揺らぐ激動期の歴史の
かげで大きな役割を果たし、ついで興った明治文化の
開花に著しい貢献をした一人であった。
万次郎は、この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の
次男に生れた。
14歳のとき出漁中、嵐に逢い遥か南方の無人島、鳥島に
吹き流されたが、半年ののち運よく通りかかったアメリカ
の捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された。
ウイリアム・H・ホイットフィールド船長は万次郎少年の人柄
を深く愛して本国に連れ帰り、3年間正規の学校教育を
さずけた。
万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第一号
となった。
彼は十年に及ぶ国外生活中 John Mung と呼ばれ
英語・航海術・測量術・捕鯨術等を習得し、二度に
亘って七つの海を周航した。
しかし万次郎は既に二十四歳の青年となっており、
祖国とそこにのこしてきた母親を忘れがたく、意を決して
鎖国令下の日本に帰ってきた。
1851年2月、かの黒船の来航に先立つこと2年であった。
このような時期も幸いして、彼は罪に問われなかった
ばかりか、名字帯刀を許され幕府の直参に
取り立てられた。
これより万次郎は外国事情の講和やアメリカ航海術とか
公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日を送った。
洋式船の操縦や捕鯨にも長じ、実地の指導にもあたった。
日本人による初の太平洋横断、かいりん丸の成功の陰
には彼の優れた航海術が大きな力となっている。
帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰ったが、江戸
で初めて写真の撮影をしたのは万次郎だといわれてる。


