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プップー兵太

 昔ある村に、のんきできさくな兵太とゆうお百姓がいた。

 野良着にかるさんをはき、腰にたばこ入れの大きな どうらんを差しぶらさげて、ほうかむりで鍬をかつぎ、畑の行き来によく通る道々、鼻歌機嫌でいつも大きなへぇーを歩くたんびにプップー、プップープのパァー、と愉快に屁えをこきながら通る。
 

 ひょうきんな兵太。ある時名主が兵太に、「おまやあ何時もプップゥ、プップーと人前でもどこでも、屁えをこきよるが、はずかしゅうはないか」と言ぅたら、兵太はにやりと名主の顔を見て言うこと、「屁えをひって、かならず恥と思うなよ、屁えは鳴り物の王なるぞ、おなかがすいて気が晴れて、琴と三味線と異なりて、匂いの出る音ほかに無し。」
 
まだあるぞ、「公家も旦那もお女郎まで、プゥッ、スゥーと屁えこかぬ人は、広い天下に一人も無しと学者が言うた。」はっはっはーと高笑し「ラッパの鳴りは身体の調子よ。」といいながら、プップゥープー、パァーと、ひときわ高く吹き鳴らしながら、行ってしもた。
 

 名主は頭をかきながら、「兵太のやつに一本取られたわ」と。(屁えとはおならのこと)。

 余談。
 あるお見合い席、婿方は若いしと仲人のおばはん。嫁方は娘とその父母で、五人でささやかなお見合い。
 若い二人、初めの内は少し緊張していたが、話進むうちにややくつろいでうちとけた。その時小さい音で「プゥー」とおならの音がした。
 
皆が顔を見合わした時、娘が恥ずかしそうに、「まあお父さん、いや」と言うと、父親は頭をかきながら、「こりゃ何とも失礼しました」と苦笑い。無事に婚約は成就した。
 これは娘の才知で、恥を父親が受けた。婿も気づいた。この娘は健康で賢いと惚れてしもた。

◎「屁えは健康のバロメーター」
 「でもの はれもの、処ろきらさず」とか。
 
 



立ちんぽ(いたどり)

 町に絵かきでインテリーですらーと痩せ高で男前で、すこーし耳の遠い人好がいた。

 その人に話し掛けるに皆な大きな声で高木さんと言ぅとツン宗さん(耳の遠い高木さん)は小さい優しい声で「ふーんなんかねー」、と静かに話をするおとなしい人柄じゃったが、絵も描かず暇な日に時折、友達で年下の干物士職人の一め(はじめ)の仕事場にきては、おどけた話をする。

 今日は天気がよいのにツン宗さん静かーにやってきてつんぼの小声で「精出してやりょるのーし、あんまりやりすぎて患いなょ」、ゆうて暫く檜板けずりを見ていたが、ふっと小声で話し掛けた「私が若い時の春イタドリの生える時期にのぅし、近所の若い娘がチックト私を好きになって惚れちょったわょ。

ある日のこと、私がおとなしいと一人見込んで『ツン宗さんイタドリ取りに行こう』、と誘われた、その日は描く絵ものうて退屈しちょったけ『おぅ行こう行こう』、と二人で出かけて、こえ山を歩き回ったが、まだ少っこし早ぅてイタドリは芽だてでこんまい娘は『まだしょう細いねぇ』、と言ぃながら、探し回っている、ツン宗さん小便ばらぅかとして、ふっといらんことを考えついた、
 
ホゥスぐちの竿を出してブリブリと振っておこらしておいて、娘に声掛けた『そこらの立ちんぽは細っそいか』、うぅん『そんならこっち向いて大きな立ちんぽが此処にあるが食べたら美味しいがどぅぜょ』、と言ぃながら娘に向けて振りかざした、
 
そしたらのぅし、娘は遅れて大きな目玉でギョロッと見てビックリ飛び上がり、『ツン宗さんのバカーバカー』と大きな泣き声を出しもって山を駆け下りてしもたわ、それでのぅし、さっぱり娘に嫌われてしもたぜょ。

それから道で娘と出会ぅたら、私を見てぶくぶく含み笑いしよる、私しゃ一時しょう弱ったぜょ。
いらんことしてばっさりいた、おかしな話よのぅし」と言ぅて、フッフーゥと小声で笑う。

 仕事手を休めて聞き入っていた一めさん「そりゃまっこと、いらんことしてばっさりいたのぅし」、と笑いながら仕事がやっと手に就いた、が、ツン宗さんの言ぅこと「どうせあのこ(娘)もやがて誰かの立ちんぽ食べるがじゃけ、一回ばぁ練習しちょいてもえいのにのぅし」ふふぅと笑う、
 
一めさん「そんなこと言ぅたち、き娘がぽっかり大きな立ちんぽ見せ付けられて、そりゃーまっことびっくりするぜょ」、ハッハッハァーと二人で笑いよる。
 
 
 



栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 13 オミナエシほか 

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                   オミナエシ(08/08/02)

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                   オトコエシ(08/09/26)

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                   フジウツギ(08/07/30)

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                   フジバカマ(07/10/01)

 

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浮姫物語(夢のお伽ばなし)

 前書き、夜寝るまえにわたしは比羅明神様の額に二礼して手を合わし、今日もお水を戴き、風呂に入り、流し、水のお陰で生きております。

 有り難うございます。と頭をたれて床に就きます。
眠りの中では色々な夢を見ますが、夢はすぐ忘れてしまいます、昨夜は不思議なお伽の夢見ました。

   その夢は◎昔、富士川の流れの中ほどに小さな村がありまして、その村は梅雨時や大雨が降ると川の水があふれて田畑が荒らされて村人は困っていました。

村人は色々と話し合い悩んだ結果、こりゃ水神様のたたりじゃけ鎮めるために女の稚児を選んで、人身供養しようと話がきまり、村の小さい女の子の中からくじ引きで選びました。

そしたら貧しくて子沢山の家に生まれて間もない三女がくじ引きで当たって選ばれた。
両親は可愛い子供を泣く泣く、村人のため人身供養にと出した。

 水かさの多い川中に高い抗を立て三方に網を引き張って安定し、竹かごの中に女の子を包んで入れ、立てた抗の先につるし上げた。

 村人は川原から人身供養の稚児を哀れと手合わし拝んだ。
その夜また夕だちで大雨が降り川水は増水して立抗も竹かごの子供もおし流された。

  風雨に荒れくるうた濁流で稚児は溺れ死にそうこれを見た弁天さまは稚児を哀れと思い救うた、稚児を乗せた竹かごはスィスィと浮いて流れ流れて大海へ、翌日は晴天で穏やかな海上に稚児を乗せた竹かごは静かな波にゆれていた。
 
小舟に夫婦で乗った漁師が河口の海で、浮いた竹かごを見付けて近くによって見たら、竹かごの中に女の子がおる、これは不思議なこと、子供のないわしらに弁天さまがおさずけ下さったありがたいことじゃと、だいじに救い上げ抱きしめて家に帰った。

さてこの子の名前は、海水に浮いていた授かり子じゃけ浮姫と名付けて大事に育てようと決めた。
その後、可愛がりほぅほぅとだいじに育てるうちに浮姫はすくすくと成長し月日はたった。

この浮姫は賢くて優しくて美しく順に育ち十七歳を迎えた。
天才美女で貴賓があり人々に慕われた。

時にある庄家の跡取り息子で立派な若いしにぜひ嫁にと所望された、育ての両親が浮姫に尋ねてみたら、えい若いしのもとに嫁入りしたいが、私には事情があって行くことが出来ない。

  それは富士川ぞいの荒れる村から水神様を宥めるために人身供養に出された身で既に命のない体を弁天様に助けられ、成人したら竜宮城の弁天様にお仕えすることに決められております。

来る八月の十五夜に竜宮に出仕いたします、お育て戴いたご恩は決して忘れません。
これから以後の孝養は別世界からお二人様の健康と幸せ長寿を祈り続けます。

と申し上げて、八月十五夜の満月に吸い込まれるように浮姫の姿は消えて行きました。 浮姫を育て上げた夫婦は離別を悲しみましが、その後は浮姫と楽しかった月日の思い出をむねに描き浮かべながら健康で幸せに年月を過ごして長生きして、共に白髪のお爺さんとお婆さんになりました。

縁起物の床飾りのじょうと爺さんと、じょうと婆さんのはじまりでしょうか?消えなかった夢。
 
 



富美子

 母の弟、照吉叔父が妻の多利子と連れ子の富美子を伴って、大阪から本山に帰郷したのは、私が中一の春に、大病して手術後の病弱体の秋頃かと思います。
 
富美子は小学五年生にしては大柄で、青白い顔で言葉少ない、病身げなおとなしい子でした。
 
 
 その時期に私は肋膜になって、学校も休んでお医者通いで、滋養を取って体調を治すべく山羊を飼って、毎日道草を刈ってきて世話をして、乳をしぼって飲んでいた。山羊の乳は沢山出るので、青びょうたんの弱そうな富美子にも朝晩飲ました。
 
 弟の辰三が生まれて半年余りで可愛い盛り、叔母と富美子は何時も辰三を連れて行き、可愛がってくれた。「叔父の家は、早船の前で近かった。」辰三の歩き始めも富美子の家で皆な喜んだ。
 
 私の病気は良くなっていても春秋の季節変わりには盛り返して悪くなり。栄養に血が増えるとかでマグロのさしみを毎日食べ、ブルトーゼー、肝油ドロップを飲んで、体を養いながら養生したが良くならん。
 
 
 それで父は薬じゃなおらん、灸をすえて焼きなおすと、たまるか毎日日にち、背中にはしご灸を肩からお腰まで肋膜のやいとは胸の後ろに十ヶ所余りに朝から昼過ぎまで、盆、正月、神祭だけ休みでその他の日々は、灸をすえつめた。
 
それで母の家事は午後が忙しいので、富美子は学校が上がるとすぐ辰三の子守り、日曜や休日は朝から晩まで可愛がって見てくれていたが、一年少しで弟の大作が生まれたので、辰三は主に叔母が見てくれて、富美子は大作の子守りに専念した。
 
それで富美子は中学を卒業するまで三年近く、大作を子供のように可愛がって世話をしてくれた。
 
 
 義理立ての気分も、少しはあったかも知れないが、ほんとに私の妹のように、子守りや家の手伝いをよくしてくれた。

 中学卒業後まもなく筒井の仕出し屋に奉公に出て三年余り勤めて、高橋の菓子屋に女中に転職して高橋の家族には、料理も上手で好かれていたが一年足らずで、風邪が元で少しの患いで十九歳の娘盛りの若さで、短い人生におさらばして逝っちゃった。


 故人、富美子の短い人生の内で、楽しそうに見えたのは、弟の辰三と大作の子守りで、我が子のようにあやして、微笑んでいた時期であろう。
罪亡き従姉妹の若死にを痛む。
 
 



刀と数元さん

 嶺北は四国の中央で、吉野川の上流、河口から百四十キロ程の地点であります。
 昔、源平の合戦当時は、四国の武将は平家方に属していました。源平に敗れた平家方は源氏の討伐を逃れて、山深い山里に来てひっそりと暮らしたそうです。

 その敗戦の武将たちが逃れてきた山里が、嶺北の大杉の立川(大豊町)や森の和田(土佐町)であります。

 そのような関係でこの地区には刀剣がたくさんありました。
 百姓をあきらめ、町に出た数元さん。これらの刀を買い集めてひと儲けしようと骨董商の許可を受け、少ない資金で立川や和田を回って安い刀を買い集めた。

 さて売りさばくに素人では善し悪しがわからん。高知へ出て刀の鑑定を受けようと鑑定士さんを捜した。やっとわかった。当時の鑑定士さんは元陸軍中将つちや(土屋?)閣下でありました。

 数元さん、恐れ入ってお願いして、持って来た刀を差し出すと、中将閣下は持参した刀を一、二寸抜きかけて見ると、カツンと納めてガラガラと放り返す。少し見てはガラガラで、しまいに「こんななまくらは駄目。」と言うと、話す間もなく立ち去る。
 

 数元さん仕方なく帰るが、数元さんなかなかにしぶとい。七、八本買い集めると、中の川越しに刀を担いでテクテク。刀は鉄で重い。四、五里の山道は肩に食い込んで大変であったが、しぶとく通い詰めた。

 そのうちに数元さん、中将閣下の弟子になって習おうと思いたち、お願いしたが、なかなかに「ウン」とは言ってくださらん。

 そこで数元さん、四季おりおりの山の物、栗やきのこ、山芋、雉、小豆など、行く時々に持参してご機嫌をと、しぶとくお願いしていたら、中将閣下も数元さんのしぶとさを見込んで、やっとお許しが出た。

 それからは中将閣下に接しても、割となごやかでぼつぼつと色々な事を教えて下さるようになった。
 持参した刀の内に、たまに見所のある刀に出会うと静かに抜いて眺めながら、古刀とか新刀とかの見分け方、生産地及び刀匠名、刀の出来の善し悪しなど色々と説明して下さる。

 そのうちに、閣下自前の名刀なども見せ、教導を受ける。その他、掛け軸や骨董品に至るまで、様々な教えを受けること三年あまり。
 数元さんの熱心さと頭の良さを中将閣下に特に気に入られて、外弟子ながら閣下の一の弟子ということになる。
 

 数元さん、鑑定士になることを周りの人から薦められたが、学歴が小学四年ではどうにもならず、それに金も無くて諦めた。

 その後、中将閣下が他界されてから、高知や山田の骨董商人が刀や軸をさげて数元さんに見てもらい、値付けに来ること度々でありました。

 終戦後、進駐軍が日本刀の整理にかかり、県でも民間から刀剣を全部出さして、良いものだけ残し、その他のものは廃棄処分することになりました。

 そのとき県は鑑定士を選びました。数元さん免許はなかったが、つちや中将閣下の一の弟子ということで呼び出され、刀剣の選定に参加しました。

 その時、なまくらで廃棄となった刀は、薪くろに積み重ねたものが幾くろもあったそうです。日本には刀が如何に多くあったかと驚くばかりです。

 戦時中日本が侵略戦争で中国へ攻め進んだ時、南昌一番乗り、不死身曹長川田信太郎の名は講談社の絵本に載りました。その義父芳吉は高価な日本刀を買って送った。

信太郎その刀を使ってみて、すぐ送り返してきた。 理由は、この刀は人を斬ったら曲がりくねって鞘に納まらんということでした。

 しかたなく兄の数元さんに頼ってきた。数元さん心当たりを詮議して、古刀でこれなら大丈夫の刀を選び出し、芳吉に買わして信太郎に送った。刀は斬れるし狂いもなく、信太郎は感服した。

 終戦になり、帰ってから信太郎は、叔父の数元さんが鑑定し元陸軍中将つちや閣下、一の弟子であったことを知り、その人間性に惹かれて仲良しになったが、戦争の疲れが出て、若くして信太郎は帰らぬ人となりました。

 数元さんが言いました。日本刀は源平当時の古刀が最高である、と。
 
 



栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 12 ショウマ

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                     アカショウマ(08/07/04)

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                    オオバショウマ(07/07/28)

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                   オオバショウマ(08/09/26)

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                    キレンゲショウマ(04/08/11)

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                    レンゲショウマ(08/07/04)

 

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大豊町在住・都築将子さんの 絵画集 その7

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誕生(父)

 時代は大正の末期、住まいはその日稼ぎのあばら家。
当時は雨でも降って主に稼ぎがなく金が無うても少しもこまらん、町のお店に行って「後で払うけ「盆暮れ」貸しちょいて」ゆうて米、味噌醤油、雑魚、雑貨品となんでも借りてきて生活が成り立つ、
ほんとに気楽に生活が出来た、のんきな時代。
 
当時はテレビもラジオもなく新聞を取って読むのも、ほんの一部のお金持ちだけで、
 
情報やうわさは口ごめで人と出会うたら話し合うて伝達するのが常識であったが、特別なことは素早く伝わって部落中の人がみんな知っていた。
 

 当時は働き盛りの男でもお百姓以外は毎日働くほど仕事はなく、まして貧乏屋の専業主婦の金稼ぎなどはなく
炊事洗濯、子育てで昼間の暇な時は近所隣の女ご同志が寄り合って、亭主や子供のこと人のこごとや噂話で日々を過ごしていた。
 

 さて昼さがり毎日くる母の友達の相撲取りばぁ大きなおばさんの「さかやん」が爪先歩きで身体ごよごよ手は小振りでやって来て
「亀やん調子はえぇかょまだ出来そぅにないかょ」、と大きなかすれ声でやってきた。
 

母は弟をみごもって臨月が近かった、小柄な体に大きなおなかを抱えて家事が一段落でやっと縁側に座った時、
母は「もうまあできにゃいかんのに中々でてこん腹は太る一方でよわったぜょ」、とさかやんの言ぅこと「そぅ心配しな亀やん、はいったものはどうせ出てくらゃよ」、と。
 
それを聞いていた。ぼん日頃おまんの弟か妹がもうすぐできてぼんはお兄ちゃんになるがぜよと聞かされていたが、
さてあかちゃんはあの大きなおなかからどうして出てくるのかなぁと不思議で、思い切って聞いてみた「おかやん、あかちゃんは何処から出てくるの」と、
 
それを聞いた母は少しためらっていた、するとさかやんが言ぃだした「ぼんは桃太郎の話はしっちゅうろぅ」、「うーん」、「桃太郎は大きな桃がぱっくり割れてぽっくり出てきたろう、あれとおんなじよ。
 

おかやんのぽんぽがぽっくり割れて出てくるがょね」、「ふーん痛いろうねぇ」、「そりゃ痛ぅて大難儀よ。
ぼんができる時もお産がえらうて、あの(指さして)障子の上の梁へカスガイを打ってロープを引き、それをおかやんは座って引っ張ってウンサウンサと三日も難儀してやっと生まれたがぜよ」と、
 
ぼんは「ふーン」と感心して聞いていたが、まだ心配で「割れたおなかは奇麗になおるが」と聞くと、さかやんは「そりゃなおらざったら大ごとよ。
 

なおるけんど大事に寝て養生したら、三、七、二十一日したら元の体になるけ、うんと言ぅことを聞いて手伝うちゃりょ、えぇかね」。
 
ぼんは「うんうん」、と感服したが、まだ一つがてんのいかんことがあった。子どもはおかやんのぽんぽから、どうしてできるよぅになるのかなぁ?
 
 
 



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