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れいほくFC(大豊町・本山町・土佐町・大川村)の最近のブログ記事

はしょうぶ

 この名称を聞くと、一般には五月の男節句に目出て使用する細長く青い葉っぱの葉菖蒲で、お節句には額に鉢巻き、手首を括ったり、菖蒲湯につかって縁起を目出たことを思い出しますが、ここにかかげた「はしょうぶ」は、六、七十年も昔の病気のことです。

 今の道は、大道からえご道に至るまでコンクリ舗装されて、石ころ一つ見当たらず土の道を踏むことはありませんが、昔の道路(広くて三~四メートル)や小路は総て土の道でした。

 土の道は台風や大雨にあうと、堅い道路でも土は流され、埋もれていたガンコな石が所々にあたまを持ち上げて、突き出ていて、気をつけて歩いていても、つい蹴つまげることが多々ありました。

 小学三年の頃、父の使いで町へ買物に「急いで行ってこい」の一声で小走りに走って、町の道路で突き出た石に蹴つまづいて、パンとかやった。「あいた」と言いながら立ち起きて、打った足を見たら、右足の臑の血はかすれて血が滲み、かがとの少し上が石の角で突いたのか、小さい穴が開いて血が出ていた。

 ちょうど通りあわせた中年の婦人が「がいにかやったねえ、たまるか、足から血が出よる」と言いながら塵紙を出してくれ、「これで少し押さえちょったら、血がとまるけ」と。「おおきに」と礼を言って、言われたとおり塵紙で傷口を押さえていたら、やっと血がとまったので、ビッコを引きながら使いの用をすまし、家に帰った。

 父の言うこと。「そそっかしいけ、転ぶんじゃ。気をつけえ」と言ってから、怪我した足を見て、「こたあない、よもぎを噛んで貼っちょけ」と。そのとおりにして放っておいたら、たまるか足が腫れだして、二日ほどで腰から下が丸々と腫れ歩けず、学校へも行けなくなった。

 これを見た父は、「こりゃおおごとじゃ、はしょうぶじゃ、遅れたら足を切り捨てにゃいかんけ、早よう、たでにゃいかん」言うたち、さっぱりわからん。どうするかと思うていたら、「亀(亀於、母の名)、早よう七輪で火を起こしてバケツで湯を沸かせ」と言いとばして、父は隣の杉垣の杉柴を切り取ってきてバケツに入れ、竈の灰をふたにぎり程入れて掻き混ぜて、「よし、ちょうどじゃ」と七輪と、たでるバケツを縁のはなに据えて、「これへ腫れた足をつばけ(入れて)て、たでえ」と。

 縁に腰掛け足を入れて言うとおりにしていたら、湯が沸いてきて「熱いー」と叫ぶと、「亀、火を細めちゃれ、少々熱うても辛抱してつばけちょれ」。

  がまんしてつばけていたら、一時間ほどたってから腫れた足の毛穴から、白い糸のようになって膿が紐になって出るわ、出るわ。半日で腫れ足が半分に細った。

 翌日も前日と同じように杉柴と灰を取り替えて足をつばけて、一日中たでたら、夕方になって膿は出なくなり、腫れは引いて元通りの足になった。

 転んで怪我して、はしょうぶ菌が入って、二日で腫れて膿み、杉柴と灰で二日たでて、こっとり治った。五日目にはビッコを引きながら学校に行けました。

 昔、はしょうぶ菌は土中にいた恐ろしい黴菌で、つい怪我してその菌が手足の傷口に入るとすぐに腫れて腐るので、早く切り捨てなかったら、菌が体内に回り、死んだ人があるとのことです。

 七十余年も前、私の右足のきりぶしの右上に、はしょうぶ菌が入った傷痕が、指でおしたほどの禿げ痕が残っています。それにしても、昔の人達の経験や手薬療法の偉大な伝達に恐れ入る次第です。
 「はしょうぶ」とは「破傷風」のことです。
 
 



のがま(野鎌)

 三月の秦史談会で78号に投稿されている神里さんの「かまいたち」が話題になりましたが、帰宅後落ち着いて読み返してみて、言葉は違うが昔、草原で転んだ拍子に鎌でシャーと切られて大傷を負ったという話を思い出して、家内に「野鎌で切られたことを知らんか」と聞いたら、次のように話してくれた。

 私が子供の頃、母親が私と妹二人に従姉妹の愛ちゃんを連れて、吉野川辺と上田の間の桑畑に春蚕(はるご、養蚕五月頃)の桑摘みに行って、私は母の桑摘みの手伝い、妹のすみか、玉絵に愛子ちゃんの三人は母が、「そこの田の岸に野苺(地苺とも言い赤い実が甘い)があるけ、ばらにささらんように気をつけて取りや」と言うと三人は土手の草原ではしゃぎながら夢中で苺取りに耽っていた。

 その時玉絵が足すべらせて軽くかやった(倒れた)。すみかが「早よう起きや」言うと玉絵は立ち上がりながら両手で頭を押さえている。
 
二人が駆け寄って「打ったかよ」と聞いたが「打ちゃーせんが頭を何かシャーッと掻いた」と言いながら頭から手を放さんので、「どら見せて」と見てびっくり、頭が大きく裂けちゅう。
 
見た二人が大声で叫んだ。「玉ちゃんの頭が割れたけ、早よう来てー」と。母と私は一緒に駆けつけて見てびっくり。玉絵の頭三分の一ほど三日月形に切り裂かれている。切れ口は白い身をはみ出しているがまだ血が出ていない。母が「のがまに切られた、おおごとじゃ」と言いながら玉絵を背負うて走る。私らも後を追って走った。
 

 家に帰り着いたら、ちょうど父親が用があって帰っていて、「こりゃたまるか、切れ裂けちゅう、早よう」と玉絵をおんぶ(背負う)して自転車を飛ばして三キロほどある田井の病院に駆けつけ、外科医さんに幾針も縫うてもらい切り傷を塞いだ。傷を縫いだしてから血がにじみだしたと。その後十日ほど通院して切り傷は癒えた。
 

 その夜、母が叫んだ「のがま」のことが合点がいかず、父母に「のがまってなんなの」と尋ねたら、父が、「山や草原で切れ物をなにも持ってないのに、歩いていて足がシャーと切れたり、転んだとき石もなにもない、打ちもしないのに切り裂かれている。
 
こんなことが昔からあって、これを『のがま』に切られたと言う。それに百姓の一番大切な道具は鎌、鍬で、神様が宿っておるけ大切にせにゃいかんが、つい鎌を忘れて帰ってしもうたりしたら、腐って消えてなくなるが、それが野加魔に変じて人に災いする。
 
大人は山や田畑へ行くときに柄鎌か鎌をいつでも持って行くが、切れ物は仕事道具と魔除けを兼ねちゅう。それにしても、のがまとは不思議な怖いことよねや」と話してくれた。
 

 私は「そんなら切れ物持っちょらん子供だけが切られるの」と聞くと、「いいや、大人でも切られたことがある」と言ってから、「子供には魔除けの呪いがあるぞ、草原を棒切れでさばきもって『はいとう様のお通りじゃ、蛇もハメもよっちょれよ』と言いよったら、呪いがきいて悪魔は逃げてしまう」と。
 私と妹らも、父親の話を熱心に聞いた。


 史談会の少し前日に、妹の玉絵が用があって田舎から出てきて泊まって、姉妹が久しぶりに話がはずんでいて、白髪の話になって髪の染め方がどうのこうのと言っていて、家内が玉絵の髪の毛を分けて見ていて、「ありゃー」とびっくりした声のあと、「あんたがこまい(小さい)時にのがまに切られて縫うたあとが残っちゅうねえ」と話し合って、ひょっこり(偶然)六十余年も昔の不思議な出来事を思い出したと話してくれた。のがまに切られても不思議なことに暫くは血が出ないとも。


 「はいとう様」とは斉藤別当実盛とのこととかで、田畑の神様。田植えがすむと田の畦に酒肴を供え、災害や虫に食われず豊作でありますようにと、おさばい様を祭った。虫除け行事に「はいとう様のお通りじゃ、稲の虫はよっちょれよ」と竹笹かついで大声で叫びながら、田んぼ路を行列が回っていた。
 斉藤様が何時の間にかなまって、はいとう様になったのであろうかと思われる
 
 



昇天(母と子の問答)

 小学校の土曜日は授業のしまいが早く、一年生の息子が帰って来て、「ただいま」と言ってから、
「おかあちゃん、いんま僕がもどりよったら、黒いきれいな洋服を着たおんちゃんやおばさんが、紙袋をさげて道へ並んで立っていた。そうしたら、お家のようなピカピカ光る自動車が来たが、だれが死んだがぜ」
と聞いた。おかあちゃんは、「あそこの道の上のお家のおばあさんが死んで、お葬式よ」
息子、
「そう、でもどうして死んじゃうの」
「そりゃあ、あのおばあさん、年がいっちょったけ、病気して、よう治らずに死んだがよね」
「人が死んだら、どんなになるの」

「そうねん、人が死んだら、息をしなくなって、目も口も動かんし、耳も聞こえんし、手も足も堅っとうなって動かんようになってしまうの、それが死んだことよ」
「ふうん、死ぬのは怖いねえ、そんで、あの光る車に乗ってどこへ行くが」
「死んだらねえ、もう自動車に乗るのもおしまいじゃけ、葬儀車という、あのきれいな車に乗って火葬場という所に行って焼くの」

「焼かれたら痛いろうねえ」
「死んだら何にも知らんけ、痛くないのよ」
「ふうん、焼いたら、どうなるの」
「まあ、くどい子じゃ、焼いたら体が魂になり、すうっと煙に乗って、天国へ昇るの」
「たましいって何、天国はええく(良い所)?」

「魂とは目に見えん幽霊じゃと、天国では雲の上に座った美しい仏様が居て、その仏様の回りでは、羽衣を着た天女たちが、えい音楽をかなでて、空中では羽衣をヒラヒラとかざして舞いよる、ほんとにきれいじゃと、そこへ煙で上がった魂は、仏様のお弟子さんになって暮らすがじゃと」

「ふうん、天国はきれいんじゃねえ、僕、死なんづくに煙に乗って天国へ昇ってみたいなあ」
「馬鹿なこと言われん、人は死んだらおしまいじゃけ」

「僕、死ぬのは怖いけ、いやじゃけんど、飛行機に乗ったら、天国を見に行けるかも知れんねえ」
「そうじゃねえ、早よう大きうなって、飛行機に乗って見に行きや」

 小さい子供は知らないことが多いので、好奇心が旺盛である。母親がめんどくさがらず、話して聞かすことで、子供の知識はぐんぐんと伸びていく。
 
 



氏より育ち

 「へんどの子」という言葉があるが、これは捨て子や貰い受けて育てている実子でない子供をやしべ、軽蔑した言葉であると思う。

  事情があって育てたくても育てられなくて、子なしの夫婦に貰われて立派に成長する。不幸の中から幸を得る人生もある。それは本人の素直さと育ての親の愛と努力であろう。

 天の生を受けて生まれる子供を事情があって育てられなければ、その子が育つ方法や手立てはあると思うに、無責任に子供を産み、赤子を放り捨てたり殺したりする。考えなしの若者が絶えない現実は悲しいことである。

 さて、話は今から五十七年も昔のこと。当時は戦時の真っ最中で男は青年から中年まで、まともな男は兵隊に取られて、老人、婦人、子供等で「がんばれ、がんばれ、産めよ、増やせ」の掛け声で子供の増産。

 なにかの都合で堕胎し、それが知れたら罪がつくご時世に、小作農で七人の子沢山の豊吉と妻の美佐とは仲良し夫婦で、真面目な働き者。豊吉は戦死者の一人息子で、兵隊免除であった。

 子供は長女のさほ十八才を頭に、六人の妹に末の長男が二才の九人家族。貧しさの中でも親子睦まじく暮らしていた。時に母の美佐は八人目の子供を身ごもっていた。

 豊吉の父は愛児の産まれたことも知らずに、二百三高地の激戦で戦場の露と消えた。母は若後家となり遺児を育てていたが、この若さで後家で一生終わらすのは余りにむごいと思い、
姑の祖母は「豊吉は私が立派に育てるけ。あなたは若い、暇をやるから里に帰り、良い人を身つけて再婚して幸せになりなさい」と無理に帰した。

 その後母は良い人と巡り会い、二子に恵まれ幸せに過ごした。
 豊吉は祖母に育てられたが、父母もなく兄弟もなく、身内は祖母だけで寂しく成人した。
 豊吉は愛妻の美佐と結ばれたとき、「俺はひとり者で寂しうふとったけ、子供はいっぱい産んでくれ、みんな育てて身内を増やしたい」と言った。

 さて、さほが子供の頃、近所の大家のぼん、一才上のお兄ちゃんが可愛がってよく遊んでくれたが、今は立派な青年学生。学休にたまに家に帰っていて見かけるが、簡単な挨拶を交わすだけになっていた。

 ある日、ぼんと出会うと声が掛かった。「僕、今日は暇ですが、よかったら亀ちゃんと二人で話しに来ませんか」と。

 さほは少しとまどったが、「亀ちゃんの都合が良かったらおじゃまします」と言って別れ、家に帰り父母に相談したら「亀ちゃんと二人なら行ってもよい」と許可を得て、早速亀ちゃんに話したら「オッケー」で、二人でぼんを訪ね、三人で話しに耽った。

 時間がたつのを忘れていたら家から亀ちゃんに「用事ができたけ、すぐ帰るように」と伝言があり、亀ちゃんは帰る。さほも一緒に帰ろうとしたが、「も少し話していきませんか」と誘われつい残った。

 そのうちにしゃんとした分別のある青年であるのに、若気のいたりか、ついむらむらときて、過ちを犯してしもうた。「この全責任は僕が持ちます」と謝ったが後の祭り。ぼんは二、三日して都の学校へ行った。

 それから三月ほどたったとき、母の美佐はさほの体調の異変を素早く察知し、夫の豊吉に話し、妹らが寝しずまってからさほを談つめ、事情を聞いてさあ困った。

 大家の息子は承知してくれても、主はおいそらと承知すまい。貧富の差もあり未来のある青年じゃ。「ええかげんなことを言うな」とはね飛ばされたらそれでおしまい。噂は広がる、娘には傷がつく、下の妹たちの嫁入りにもつかえる。さあ、困った。

 苦悩のあげく、母が後妻にいった義父(小学校長)に相談した結果、義父の本家(前の浜)に、さほを嫁入り勉強として女中奉公の建前で預けて出産を待ち、子供が生まれたら豊吉、美佐の子として届けを出し、貰い手に養子として引き取ってもらうことに話を決め、さあ段取りにかかった。

 義父が再三足を運び、事情を打ち明けてお願いしたら、本家はやっと引き受けてくれた。次は養子に貰ってくれる人を詮議していたら、義父の遠縁にあたる中浜という教員がいて、結婚して十三年にもなるのに子供がなくて、素性の良い家の子がいたら貰って育てたい、
との噂を耳にし、早速駆けつけ相談したら、赤子から貰って育ててくれることに話が決まり、豊吉夫婦も母も義父もやっと一安心。

 間を置かず、さほを見習い奉公として前の浜の本家に預けた。
 月日の過ぎるは早く半年余して、さほは元気な女の子を出産したとの秘報を受け、早速に手配して駆けつけ、養子に貰い受けてくれる中浜にも来てもらい、出産後二日目の夕方、親子の情が薄幸のまま赤子を手渡した。

 この時の約束事は、「ご事情はご承知の上でございますので、申し上げませんが、ただこの子とは親子親類の縁は、この場限りで絶ち切りますので、貴方様のお子としてご自由に立派にお育てください」と言って、豊樹とさほは、
赤子を抱いた中浜夫婦に手を合わし、頭をたれた。立会人としてそばで見ていた義父も、幸か不幸か人の決別の哀れに、涙が頬をつたっていた。

 それから三年目に、義父が里帰りして、聞いてきた話によると、中浜は友人の誘いで東京に一家三人で引っ越し、中学教師をしているとか、それからは中浜のことは気にもせず、聞きもせず忘れ去って年月は流れた。

 あの出来事から五十七年もたった今年の春、一通の手紙がさほの元に届いた。差出人は中浜みき、東京都からで、文中の用件は、父母が交わした約束事を破っての断りと、「一目お会いしたいがご都合いかがでしょうか」との問い合わせであった。

 これを見たさほは、長い間忘れていた昔のことが頭の中を駆け巡り、自分が腹を痛め産み捨てた子が、どんな人になっているのであろうか、期待と緊張と恐さで頭が混乱した。

 しばらくして気を静め、「お会いしましょう」との返信を送った。
 その後、日取りも決まり、場所はホテルの座敷を借りて、ある日の午後、二人は対面した。;
 さほは少し早めにホテルに着き、一息入れて決められた時間に案内されて座敷へ、「失礼します」と声して襖をあけ、中を見た。

 きちんと和服を着こなした中年の婦人が着座していて会釈し「どうぞ」と手をさしのべた。さほが座って軽く会釈すると、みきは少し座を引き丁寧に頭を下げ、「初めておめもじいたします。本日はご無理を申し上げ、ほんとに申し訳ございません。私は中浜みきで、当年五十七才になります」と。

 さほも「初めてお目にかかります、私は姉(建前)でさほと申し、七十六才になりました。貴方を初めてお目にして、ご立派に成人なされました。中浜のご父母様の愛と慈しみで、心から深く感謝いたします」と頭をたれ、頬を涙が流れた。

 それから父母(実、祖父母)の生前の写真を見せ、実情を話したり、お互いの現状や家族などのことを語り合った。

 みきの話によると、女学生当時、養女のことを知り、母に尋ねたが母は「乳飲み子の時から父さんと私で育てあげた二人の実の子じゃ」と言われてから後は、聞きも話してもくれなかったが、昨年、母が死のまぎわに真実を話し、血は切っても切れない、
会いたかったら会ってよいと言ってくれましたが、私はお父さんお母さんの子です、会いませんと言った。母は安らかに成仏しました。

 お互いに話し合い、見合うての二時間足らずの対面であったが、二人の胸のうちは切れない一つの血が騒いだことであろう。初めてで最後になるかも知れない、たった一度の一会(出会い)は、縁の薄い親子の脳裏に美しいイメージ、画像として収められ、生涯消えることはなかろう。

 これは、昼寝の夢から生まれた、フィクションであります。一会の楽しみ、会うは別れの始めとか、縁は異なもの味なもの。
 



かぼちゃの子

 親子三人で夕飯をすましくつろいだとき、幼稚園の息子がポツリと、
「ぼうは、どっからできたの」と聞いた。
 
とうちゃん即座に、
「そりゃ、僕はこの、おかあちゃんのポンポから、ぽっこりと出来たがよや」ふうーんと感心したあとで、
「ぼうはおかあちゃんの子で、とうちゃんはなんなの」と聞いた。
 
とうちゃん少し立腹で、声を高め、
「とうちゃんがあったけ、できたがよ」ぼうは頭を傾けていたが、
「おかあちゃんの子じゃと言うたのに、わからん」「こりゃ、めんどい子じゃ、とうちゃんが、かあちゃんに種をつけたけ、ぼうが出来たのよ」

ぼうはやっと納得したような顔で、「ふーん、とうちゃんが南瓜のような種をおかあちゃんに植えて、ぼうができたがか、そんなら、ぼうは南瓜の子か、ハッハッハァー」
とうちゃんも、かあちゃんも笑いながら、「おかしな、しわい子じゃ」と言いながら、臍が上へ下へと笑いよる。ハッハッハァー。
 



言葉のあや

 「アイタ」とは、頭が柱かなにかに当たったときとか、打ったり、けつまづいて痛いと感じたときに出る言葉である。

 なかなかに開きにくいものが、やっと開いたときにも、「アイタ」と喜ぶ。

 満室で空いた所がなかったが、人が降りて席が空いたときにも「あそこがアイタ」と言う。

 「アイタ」も、痛みで出る言葉、開いて出る言葉、空間が出来て言う言葉と三通りある。

 「アイタイなあ」は、恋人に逢いたい。逢うたらドキドキ。しばらく遠のいている親しい人に逢いたい。そんなときに念願する気持ちから出る言葉である。

 「ああイタイ」は、痛みがゆっくりと伝わってくる神経の痛さを痛切に感じたときに出る言葉。

 ところで私は、痛くもないのに「アイタ」とついつい言う癖がある。それは、物をこぼしたり、落としたり、なにか些細な失敗をしたときに出る小声である。家内が「痛うもないのに「アイタ」はおかしい」と言う。

 私の説明は、物事をつい失敗した時に、「シャンシモタ」とか「バッサリイタ」と思ったときについつい出る言葉で、これは職場でいつともなしに癖づいた言葉で、ひとりでについ出る。

 さて、「シャンシモタねや」とか「バッサリイタのう」と言っても、他県の人にはさっぱり通じない方言であろうと思う。



川入り(身投げ)

 背たけは普通の人よりやや高い、体は人の倍以上で二十貫以上もある太いおばさんの"さかやん"、足も大きいから指先がセッタに入らず、つっかけたようなあんばいで爪先歩きでバタバタやってきて、戸口から大きな声で、

「かめやん、おまん聞いたかよ、よんべ川上で川入りがあったと」
「ええー、そりゃ身投げかよ、誰ぜよねえ」と話し合うのを聞いてみると、一昨日の晩のこと、農家の一日が終え、家の者みな疲れて寝てしもた。夜中に息子がふと目が覚めて見たら、側で寝ているはずの若嫁がおらん。おしっこにでも行ったがじゃろかと待ったがもどってこん。家の者を起こして捜したがおらん。
 

 そのうちに朝になり、里へも使いをだしたが帰ってもいない。さあ大変、近所の者も気づこうて一緒に探してくれたが見つからん。

 昼過ぎになった時、川瀬の崖の手前に女物の下駄の上に櫛を置いたのがあると連絡が入り、早速駆けつけてみたら若嫁の物じゃ。

 こりゃ身投げじゃ、大ごと。昨日一昨日と雨が降って、川の水が増しちゅう。早よう見つけにゃ大変じゃ、流れてしまう、と親戚や近所に部落総出、消防団もくり出して、川には小舟を集めてきて分乗して川岸から瀬や渕とくまなく捜すが、水かさが少し増した川水はなかなかで、朝から日暮れまで毎日捜すが見つからん。

 そのうちに一週間も過ぎると、捜す人数も少し減り、消防団員と親戚、近所は交替で川を順に、下へ下へと捜すが見つからん。

 川入りで人捜しが長く続くと、その噂は吉野川筋に順次伝わる。そんな関係で川下の漁師なども気をつけていたのであろう。
 
川の捜査が川口辺まで下がって来ていた十一日目に、身投げの場所から六里(二十四キロ)も下の大田口の少し上手の渕底に、着物姿のようなものが見えると川漁師からの連絡が入り、捜しつめていた者は舟下りと徒歩で急ぎ現場へ駆けつけ、川達者が二、三人、すみこんでやっと引き上げた。
 

 川原に寝かしたその亡骸は見るもむごい姿。そのうちに身内や駐在巡査も来て、身元確認も簡単に済み、夜にかけて連れて帰り、ねんごろに供養して、密かに埋葬したと。

 翌日、さかやんがやって来て、例の大声で、
「かめやん、おるかよ」
「おるぜよ」
「かめやん、あの川入りは、器量良しのええ子じゃったと嫁入りして来て一年にもなるのに、子供が無うて仕事にゃこき使われ、当たりちらされよったと。
 
近所の話じゃ、またい(弱い)ひ弱な嫁じゃったけ、辛抱しかねてのことじゃろう。当たられたら辛いけのうし。それが身投げしてから十日あまりも吉野川の荒瀬をごろごろ、岩にこち当たりもって六里も流れて引き上げられたろう、着た着物はぼろぼろで、白い肌は顔も足も水に曝され、むくれて哀れな姿はまるで幽霊じゃ。
 
そのうちに駆けつけて来た父親が、亡骸をうだいて涙ぽろぽろ落としながら、「むごいことしたねや」と声をかけた時に、死人の口から赤い血がぞろっと出て、側で見よった人も、皆しょうおくれたと」

「ふうん、不思議なことじゃねえ。死んじゅうけんど、親に抱かれて安心しても、ものが言えんけ、血を出して返事をしたがじゃねえ」
「そうよそうよ、人は不思議ぜよ、死んじょっても血のつながりは、その血を呼び出すけのうし」
「昔の人が、血は切っても切れん、言いよったが、ほんとじゃねえ」
「今日はちっくと曇ったけ、晩にゃぽろぽろ来るかも知れん。こんな晩には、川上から下へ、火玉がふらふら飛ぶかも知れんぜよ」
「さかやん、火玉は怖いけ、もうええ」
「また明日来て、話いちゃろう」
 



消防演習

火と水はプラスとマイナスか陰陽のごとくで、人々の暮らしに重要で大切な代物である。
 真夏日の焼け付くような暑さには、水は特に欠かすことはできない。喉の渇きをいやす一杯の水、体温を冷やして遊ぶ海水浴やプールでの水泳、小川での小魚採りや水遊び、幼児のたらい水、チャプチャプ水はね喜ぶ笑顔、見る親たちまで嬉しくなる。

 つい火の不注意で火事となる。一一九番へ緊急電話、間もなく消防車が駆けつけ放水して消火にあたる。大火にならずに消えればよいが。

 さて、現在の消火や救急に従事する隊員は、殆ど公共専従の公務員の月給取りである。それに比べて半世紀前、戦前の消防活動は町村や大部落に消防団を結成して、無報酬で事に当たらせていた。その団員は、団長と小頭以外の団員は血気盛んな若者達で結成されていた。

 当時、男は満二十歳で徴兵検査。健康で並みな男は皆兵隊に取られ、陸軍は二年、海軍は三年の軍事教練がすむと在郷軍人(一人前の男)として帰還し、家業やその他の仕事に就く。

 さあ、どこそこの息子が兵隊から戻って渡世を始めたぞ、と消防の役員が逃がさず駆けつけて団員に入れる。貸与品は忠臣蔵討ち入り兜に似た消火帽子に正帽、背に団名入りの法被に足元まである股引、地下足袋。団員としての心得は、そりゃ火事じゃと半鐘が鳴ったら、何処で何していてもサッと家に常備の衣服に身を固め、ポンプ小屋に駆けつけ、団員共同でポンプ引き出し消火にあたる。

 その当時の消防団の年間行事としては、二月二日の初午、町の所々でポンプで家の屋根に水を掛け、その後団員が二、三人ずつに分かれて、火の用心の張り紙と火吹き竹を各戸に配って寄付を集める。当夜は団員が集まっての慰安会。

 次は、訓練と演習を兼ねた年に一度の大消防演習。各団体(本山、大石、吉野、田井、森、地蔵寺)、五ヶ町村が本山町に集い盛大に行われた。各団には一台の手押しポンプ(約八十センチ~一メートル幅で、七、八十センチの高さの角で、空気圧力式、手動、エ形のギットンコットン)があった。

 消防演習日は毎年八朔(旧八月一日)と決まっていた。立秋も過ぎ、朝晩は少し涼しくなったが、昼間の残暑はまだ真夏日である。

 さて場所は、本山小学校から段々の小ぜまち田んぼの下に開けた広い川原(現在地は本山の町を大きく迂回した三九四号線のすぐ下の自動車練習場)である。

 当日は、今日もまた昨日に続いて天気が良うて暑いぞ、水掛け合いの消防演習にもってこいで面白いわ、と嶺北一円の消防団やその家族、部落のひいきもきよい立ち、朝も早ようから御馳走の手弁当を重箱に詰め込み、部落総出の応援。

 団旗を先頭に荷車に積んだポンプを引き立てた団員の後に、部落中の人達がわんさと続いて本山の川原に押し寄せた。

 午前十時頃、団旗をかざした各団員は本山小学校に整列し、警察署長や総団長の訓示と激励を受けて一応解散し、川原にもどり昼食や休憩。昼過ぎから待望の消防訓練や競技が始まる。

 先ずは訓練の水飛ばしで、吉野川の川辺十メートル余の所に間隔をおいて、各団ごとにポンプを据え、少し手前の岡にもどって総員横列し、「訓練始め」の号令で一斉に駆け出して自団のポンプへそれぞれの持ち場に着く。

 吸い玉の元筒を川に投げ込む者、ホースを延べる者、筒先を持つ砲手に介添え(助手)で筒先を構える。ポンプ係はエ形のとんこめ押棒に八人から十二、三人かき付いて、そりゃ押せ、ワッショイ、ワッショイの掛け声と共に力一杯。

 押棒は胸より高く腰より低く、一方上がれば一方下がる。トンコメは空圧で水を吸い上げる。押せば押すほど圧力で水を押し出す。ホースに充満した水は筒口でパチパチッと音を立てて放水する。六台のポンプ、そのトンコメを押す団員の掛け声と汗に、六本の筒口から力の入った放水は、吉野川の対岸にとどけとばかり、水は飛ぶ飛ぶ。競い合う消防士やわめきたてる観衆に水しぶきが散る。

 放水訓練の行事が三十分たらずで終わると、一旦休憩。さて、次は待望の的寄せ競技となる。

 しはえは広場の川辺より岡の上に、川上から下手へ約三十メートルの両脇に、なる(足場用の間伐材、棒)を立て、約五メートルの高さに八番線をパンと引き渡し、その線に一斗缶を直き付け(自在に動く)。その缶を中央にして、両側から水を飛ばして的缶を敵陣に送り付ける競技を、団体せりあげで行う。

 さあ待ち兼ねた競技が始まる。両側に分かれたポンプに消防士が配置につき、奇声を挙げて手技を押し出す。的缶の下、両脇に対峙した砲手は選ばれた名手、筒先を地面に向けた放水は地砂を跳ねて合図を待つ。

 「始め」の合図と共に水棒になった放水は力強く斗缶に当たり、カンカン、ガラガラと音たてて激しく競り合う水流は×の線を描いて水花が散る。攻防の内に筒持つ手元が狂いでもすると、的缶は横に滑る。防戦の砲手や筒たぐりは後ずさり、追う攻め手、共に防水は大きくくねる、持ち直して的を撃つ。

 押されたり押し返したりで攻防が続く。応援観衆もハラハラ、ドキドキ、のぼせた歓声と消防士達の気勢に、火花のごとき水しぶきが小雨になって場内一帯に降りかかる。

 消防士も、見る者も、共に町村対抗で力の入った楽しい競技、大消防演習は日が西に傾くまで続いた。

 この消防演習は、血気な在郷軍人が軍隊に招集されるまでの戦前まで、毎年行われていた楽しい思い出の一つである。
 



田 役

 吉野川の南岸の岡に開けた本山の町は、春は桜や石南花、川辺のつつじは南北連山の燃え立つ緑に映えてほんとに美しく、それに加えて山水か育む清々とした空気も美味い、のどかな町である。

 その本山の下町から南山の傾斜に若宮公園があり、この桜の園を挟んで上と下を、兼山掘りのゆ溝が二筋に東から西へ豊かな水をたたえて流れ、吉野川の川沿いに開けた田んぼや町をうるほし、昔から幾度かの町の大火も防いだ防火用水としての大役も兼ねている大切なゆ溝である。

 この二筋のゆ溝は帰全山(鴈山)公園の鶴嘴、川原を大きく迂回した吉野川王瀬の肩に、南から突き当たるように出た小川(樫の川)。水源は国見山と三郷の峰合いから泉み出て、大石と吉延部落のさこあいを流れて吉野川本流に達している。

 樫の川の中腹、両部落の下、大きな岩瘤巻の小川を、岩や石垣でせき止め水を入れた兼山掘りのゆ溝は、町の南上を、上ゆ下ゆと流れて十キロ余りもある。

 四国の連山と吉野川、町並みを望観できるゆ溝の小道は、町の人たちに静かな散歩道でもある。

 さて、年中水を湛えてゆるやかに流すゆ溝。このゆ溝の管理や修復は、主にお百姓さんの仕事で、日々の見回りは当番制で、当番に当たった人は朝早くから歩いてゆ関からゆじりまで往復し、ゆの戸(田へ引く水落とし口戸や、山あいからの小谷水は全部ゆ溝が受け止めているので、小谷が下へ涸れてはいかんので落とし水を調節する戸板)ごとに水加減を見ては調節して回る。

 修復工事で一番大変なことは田役という行事である。冬の寒風に震えていた草木も、暖かい春の日ざしと共にふきのとうやつくしの芽がふき、菜の花に蝶が舞い桜花へと自然は順次ほころび、人々も身も心も浮き立つ好季節。

 日々は夢の間に過ぎ桜花も風に散り、川辺は躑躅に色染まる五月。梅雨やしつけ(田を耕し稲植えるまで)を控えて、さあ田役(年中の通水に洗い流されたゆ溝の土手修復)じゃ。
 
この作業中は、水を止める(水の干上がったゆ溝の小溜まりで、ゴリやどじょうの小魚を手掴みで取るのは、子供達の楽しみであった)。
 

 さて、作業の段取りは、ゆ掛かり田んぼの反別に応じて、歩役と日数が前もって決められていた。

 さあ、お百姓さんは男も女も総出で、男はかるさん股引き向こう鉢巻き、きよい(張り切る)の姿で、棕櫚のもっこに赤土入れて天びん担いで足取り軽くほいほいほい。
 
かますのもっこに赤土山盛り、前後を二人で担いでほいこらほいと運んでは、ゆ溝の傾斜(六、七十センチ)の土手に順次移して、また土取り運ぶ。狭いゆ道は天びんともっこ担ぎが行き交う長い列。

 土入れた傾斜の土を年役がひら鍬でぺたぺたと塗りならす。
 
その後に続いて女ごし(婦人)は、白い手拭、姉さんかむり、紺の仕事着に赤たすき、裾を尻からげにまくって臑から下は赤いお腰で艶やかな、十人余りの人数で、みな手に手に一ひろほどの竹竿(破竹)の先に木の丸太(直径五センチ、長さ二十五センチ、金槌ゲンノウの形)の土たたきで、塗りならしたあぜ土を、艶な女ごし連が横に並んで竹竿槌を、天まで振り上げては叩きつける。
 

 その音はぱんぱんぱんぱんと拍子が合うたり乱れたり。そのうちに唄声がはいり、叩きつける槌音は太鼓と鼓に代わって調子を合わし、ぱんぱんぱんと叩きつけながら、隊列はゆっくりゆっくりと横しもへ移動して行く。

 和やかな流れ作業の姿は、まことにユーモラスで、見る人の心を飽きることなく楽しませる。

 この山河にマッチした見事な田役の光景は、町のゆ溝を上から下へと一週間余り続けて見られた。

  今はゆ溝のあぜ土手や、水漏れ箇所はコンクリートで全部が固められて、楽しく見えた田役作業の光景も、時は流れて昔の夢となった。

 ◎追話  野中兼山が百姓人夫を大勢駆使して、初めてゆ溝を造ったとき、川水を堰こんで流したが、水はゆ溝にだんだんとしみこんで下へ流れ着かない。

 なんでかなあと兼山は頭を悩ましていた。それを見たある老人が、学問があってもまだ若い、知らんことがある。ひとつ教えてやろうと、「ゆ元で赤土を踏み、濁してどんどん流してみよ」と。

 兼山は言うとうりに作業を進めたら、赤泥の水はゆ溝のしみ穴を逐次ふさいで水は順調に流れた、と。嘘か誠か?



霊が舞う

 昔から、夏が来て暑い夜の夕涼みには、怖い色々な話を聞かされたり、怪談ものの芝居や映画を見てぞうっとすると汗がひっ込んで涼しくなる妙を得ている。

 最近はテレビで不思議な霊感や心霊術、超能力的な映像を多く放映するので、つい見せられて、霊への関心が高まっている。

 半世紀前(戦前)の国内は現在のように開けてなくて、行者や神官や易の占い師が多く点在していた。

 病気に罹って回復しないので見てもらうと、家の方角が悪いとか、誰それの霊がくっついて災いしているとか、病人に犬神やトンベ(蛇)の魔性が取り付いたとかで、これらの霊付きや魔性を取り払うには科学的な医術では手に負えず、心霊術の太夫さんに祈祷や祈りでお払いをしてもらって回復を願っていた。

 当時は、霊や魔性が目に見えずして飛び舞い、怖くて不思議で、またおかしなことでもあった。

 今から三十四、五年も前のこと。専売のたばこを指定店に卸売に行くため、三輪自動車に同僚と二人、運転と販売方で同乗して吉野川の北岸を川口から立川沿いの曲がりくねった三里余りの山道を登った。

 仕事を終えて立川からやっと川口に出、北岸道を吉野川沿いを上へ、焼山谷を回って見渡しの良い道路の道端に、真新しい花筒にしきびや花を差し、供え物をして祭ってあった。

 それを見た運転手の同僚が、「この間の晩に、こんなえいくで四十過ぎの若い男が自転車でこけて死んだがじゃと。惨いことよのうし」と言った。
 
それを聞いて「若いけ女房も子もあろうに、不運で惨いことねや」と二人が口を合わして同乗し、葛原橋を南岸へ渡り県道に出、高須の方へ少し登りの坂道。

 悪い山道から良い道に出たので、運転手も気が楽になって、車も馬力が出て早くなった。百メートル余りの直線を走る車が左に寄り道端の青草をなでた。

 あっ危ない、と思ったとたんに、車は道から外へ飛んだ。傾斜の荒い石垣に回転してヅンと当たって二回転してドンと当たった。助手台で小さい手技にかきついていたが、振り放されて体が石垣にぶちつけられた。

 たばこの木箱も荷台から離れてガラガラと落ちる。十メートル余の崖下へ車は三回転して、荒れ畑へドスンとまともに落ち、それへ私と箱が重なり合った。

 左肋(骨)が痛んで息が苦しい。運転の同僚はどうかと見たら、棒ハンドルを突っ張って握り、腰掛けまたいで足つんばって乗車のまま。

 同僚は私を見て「兄貴どうぜよ、事ないかよ」「おらぁ振り落とされた時、何かで肋を突いて痛い、息がしにくい」「そりゃいかん」と、私を抱えてやっと道路に出て通る人に助けを求めて、私はタクシーで病院へ。運転の同僚は怪我なくて、連絡や後始末に追われた。

 私の怪我は、心臓のすぐ脇を、神経痛のためしていたコルセットの真鉄がまがるほど突いて、肋骨が折れていた。何に突き当たったか後で調べたら、傾斜の石垣に生えていた梶を鎌で切って剣のようになっていたものがコルセットの真鉄に当たったもので、コルセットをしていなかったら心臓ぶっすりでした。

 この事故は、道も広く直線で安全な通りであるのに、なぜこんなことになったのか腑に落ちん。それで、現場の検地や車の調子、運転手の体調や精神状態など色々と調べているうちに、ある老人の話から、それは不思議で怖い幻想が、事実となって事故を招いたとわかった。

 思いがけない災難や事故で、突然死んだ人の霊は素直に成仏できず、悪霊となってさ迷い友を呼ぶという。その迷える霊に同情したりすると付け込まれて誘引されるという。怖いこと誘い殺されよった。

 三輪車の事故現場から、「惨いこと」と同情した死者の場所との間は、道路が曲がりくねって大きく迂回して吉野川を渡り、南北直線(四キロ余)に見通した所に来た時、運転手は眠ってないのに目が霞み、ハッと思うた時には車は空へ飛んでいた。

 運転上手で確かな同僚は今でも、「あの時はほんとに不思議じゃ、死霊に取り付かれたがじゃ」とこぼしている。

 最近は路上で交通事故死者が多くて、道端に花束の供養を見掛けるが、「惨いこと」なんて同情は禁物かも。

 知らぬが仏、さわらぬ神に祟りなし。
 蛇もハミもよっちょれよ、はいとう様のお通りじゃ。
 



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