2010年4月24日(土)11時30分~高知工科大学食堂で、
「奥ものべを楽しむ会」の人達が造る、美味しい地元料理でまんぷくになったお腹を抱えながら、
県下各地の"高知を元気にする"取り組みの交流を目的に、まんぷく交流会(オフ会)を実施しました。
心を込めて料理を作っていただいた「奥ものべを楽しむ会」の皆さんや、朝早くからお手伝いに参加したスタッフの高知工科大学生に感謝の意を表しながら、第2部のコーナーに移動しました。
美味しい料理でまんぷくになった"オハラ"をかかえて、
地域の活性化を応援する活動のプレゼンテーションが、坂本耕平・「高知ファンクラブ」事務局長の司会で進められました。
香美市塩の道保存会、体験農場夢の里公文農園ほか
奥ものべを楽しむ会参加団体
会長・公文寛伸さん

奥ものべを楽しむ会」(会長:公文寛伸)の取り組み

まんぷく交流会(オフ会)開催のお知らせ3 香美市塩の道保存会、体験農場夢の里公文農園ほか奥ものべを楽しむ会参加団体


塩の道・いざなぎの里、物部から絵金の町、赤岡ヘ
香美市塩の道保存会 会長 公文寛伸

地元、香美市の紙芝居作家 おかもとあつし さん がこの塩の道の紙芝居を制作して 、楽しくて分かりやすい宣伝をされています。
塩の道のロゴマークも制作されました。

1. 塩の道由来
文献によると天正から慶長の年代(400年くらい前)には、今の香南市香我美町岸本から吉川町にかけての海浜は一大製塩地であって、その塩田数は180とも200とも言われています。
赤岡には塩市が開かれていたようで、この塩を奥地に運ぶための道を塩の道と言ったそうです。
塩生産地と奥地とを結ぶ重要な産業道で、塩は庶民生活に不可欠のものであったため特にその名称が付けられたようですが、塩に限らず生活必需物資も運搬され相互往来の往還道でもあったようで、今でもその土地の特長を生かし、七浦往還、日浦往還など地名が残っています。
また、現在の「塩」「シオタキ」「塩が峯」等の地名も塩と関係していると言われています。
当時の最大運搬機関として馬が使用され、馬の背に塩や雑貨を積んで往来した関係で、馬の安全を祈願する馬頭観音が塩の道に沿った地区に祭られています。(確認6ヶ所)
私達は、今回大栃―赤岡間を塩の道として整備していますが、これはほんの一部で大栃より奥に入り、別府の四ツ足堂峠、久保の韮生越え、笹越えで祖谷へと、3つの往還が四国山脈を越して徳島へとつながり、奥地より浜へ、海より山へまさしく多くの人の生命を守っていたのが塩の道です。
2. なぜ今塩の道か
今の日本は政治、経済、地域社会どれを見ても大崩壊の続く毎日であり、想像もしなかった出来事や事件が頻繁に起こり不安というより恐怖感さえ感じます。
昭和30年代入り高度経済成長期に入った我国は、「ただ、強く・大きく・前に上に」を求め、日本の昔より受け継がれてきた、すばらしい歴史、文化、生活を、単なる踏み台として邪魔な物は壊し、新しい経済大国日本が生まれました。
しかし、片方には壊れ行く日本、今にも沈没しそうな日本です。昭和に生きた私たちは大きな責任がある。このような社会にしたのが、私達人間なら、これを修復して新しく進む道を決めるのも私達人間だと思います。
そこで、私達はこれからの地域社会を考える前に、私達の先祖が荷物を背に汗を流した塩の道の再整備を行い、今一度原点に戻り、歩くことに始まり、過去の歴史を少しでも把握し、これからの進むべき方向を見出したいとの思いでこの事業をはじめました。
○理由1
何百年にわたって使われていた塩の道が姿を消そうとしている今、このすばらしい歴史と文化を持つ宝物を、再現し次の世代に継承することが、私達に課せられた使命と信じたからです。
○理由2
日本ウォーキング協会の言う歩行文化、ゆっくり。ゆったり。心豊かにというスローライフの取り組みは塩の道を置いて他にないと信じたからです。
緑の自然の中を大きく息を吸って歩くことによって健康になり、地域を知り、人を知り、会話を持ち歴史を知ることが出来るのが塩の道です。
香美市ファンクラブ


